みずきりょう の:エクステリア&ガーデンメモ NO3,076
「世界のガーデン」第八章:「風景式(イギリス式)庭園」
第59回:「風景式庭園」とは?②
「風景式(イギリス式)庭園」(以後は「風景式庭園」と表示)について検証中。とは言っても、前項では同庭園が登場するに至るヨーロッパ庭園の経過(歴史)を再確認する作業が大半を占めました。そこで、本稿からは、本来の目的である「風景式庭園」とは何かについて多角的な分析を試みたいと思います。
まず、「風景式庭園」の定義ですが、既に提示(前項)の通り「自然の景観を尊重した広大な庭園」と言ったところ。でもなぜ「広大な庭園」でなければならないのでしょうか? 小さな庭園は「風景式庭園」に含まれないのでしょうか? 実はこの答えはかなり微妙。狭義の解釈では、小さな庭園は「風景式庭園」に含まれないと言う事になりますが、広義の解釈では含まれると言う事になるからです。
では、狭義と広義の相違とは。ヨーロッパの王族・貴族などが創った歴史的庭園に限定すれば狭義の解釈、デザイン的特性だけを考えれば広義の解釈となると言う事。従って、後者を対象とすると具体的に「風景式庭園」を紹介する時、現代の公園や個人庭園まで含めなければならなくなります。従って、本稿では<狭義の定義づけ>を採用することにします。
では、「風景式庭園」はいつ頃登場し、誰がその先駆者となったのでしょうか?
まず登場年代ですが、1,730年以降とするのが一般的。そして、「風景式庭園」作庭の先駆者となったのは「ウィリアム・ケント」(1,685~1,748年)と「ランスロット・ブラウン」(1,715~1,783年)の2名だと言うのが定説となっています。
「ウィリアム・ケント」は建築家であり作庭家でもありましたが、どちらかと言うと後者のイメージが強く、その代表作に「ホウカル・ホール」があります。同建造物はイングランド中東部のノーフォーク行政区のホウカルと言う街にあり、パッラーディオ建築(ルネサンス風建造物の一流派)の代表作とされています。一方庭園は、丘(最高部)にオベリスクが設置され、そこから1.6㎞に及ぶ並木道が通され凱旋門まで続いていました。そして、少しずつ拡張され1,770年頃のピーク時にその面積は6.1㎢に達したとの事。ただし、凱旋門付しか現存しません。従って、「ホウカル・ホール」は代表的「風景式庭園」の中に含まれていません。
「ランスロット・ブラウン」に関しては、「ブレナム宮殿」「チャッツワース・ハウス」「ハイクレア・カールス」「ウォーリック城」など多くの作品を残し、「風景式庭園」の父とも言える存在。ある意味、「風景式庭園」における、「平面幾何学式(フランス式)庭園」の創始者「アンドレ・ル・ノートル」のような存在とも言えます。
従って、後項で多くの作品を取り上げる事になり、その過程で人物像に迫りたいと思います。